尾瀬の水芭蕉に「おじさん」たちしばしたたずむの記
 
 
                              和久理記
1.おじさんたちの日焼け止め
 今岡、福間三郎、和久理の3人が、いずれもやや腰の曲った山男の格好で
東京駅20番線ホームで落ち合った。上越新幹線に乗り上毛高原駅下車、バ
スで尾瀬ガ原への入口の一つ、鳩待峠(ハトマチ1591m、群馬県)に着
いたのは6月2日、昼の12時すぎ、東京駅から約3時間。快晴だ。その峠
の休息所で食事を済ませ、目指す尾瀬ヶ原に向けて歩き出したのは13時半
過ぎ。今岡が先頭、福間、わくりの順だ。

ルート・マップ(総工程:26km) (マップをクリックすると大きな画面で見ることができます。)
今岡、福間の顔が、なにやら白い。聞くと、日焼け止めを塗ったという。 「なるほどねー、60を過ぎて日焼け止めかー、おじさんたちがんばるねー」 これは、わくりの一人ごと。新緑のブナ林に囲まれた、なだらかな下り坂。 これが尾瀬ヶ原の湿原まで続く。約1時間の行程。新緑といっても、まだや っと葉をひろげた、ごくやわらかい緑色の木立の木道(モクドウ)を下って 行く。約30cm幅の頑丈な木道が2条。ここでは右側通行と案内板が立て てある(環境庁)。ブナの木立の間から、残雪をいただく至仏山(シブツサ ン、2228m、百名山の一つ)の、なだらかな稜線が左手に見え隠れに続 く。

尾瀬沼入り口で

残雪をいただく至仏山

2.「こんちわー」
 尾瀬の湿原から帰ってきた色とりどりの華やかなハイカー達に、途切れる
ことなく出会う。もちろん中年の賑やかな、おばさん達が圧倒的に多い。彼
女らが我々と、すれちがう時、わくりが「こんちワ」と、声を掛けると「こ
んちワ−」と、一斉に挨拶が返ってくる。いつもの山の挨拶だ。これには今
岡、福間も面食らったようだ。2人は、なかなか「こんちわ」が出てこない。
しばらく行くと木道の左右に、こじんまりと群生している水芭蕉に出会う。
今岡が急ぎ足で近ずくと「これかー」といって覗き込む。続く福間も無言で
デジカメを取り出した。湿原には沢山あるから、そこでゆっくり見よう、と
先を急ぐ。
 鳩待峠から休息なしに小1時間も歩いたところで、山の鼻(至仏山の山裾、
尾瀬ヶ原湿原の一方の西端に位置する、尾瀬ヶ原の要所)に着いた。今夜の
山小屋泊まりは、この湿原の、もう一方の東端で、燧ガ岳(ヒウチガダケ2
346m、百名山の一つ)の正面、真下の下田代十字路にある燧小屋まで約
6キロ。夕刻5時までに着けばいい。小屋の予約は鳩待峠に着いた時、公衆
電話で予約をとった。空いているので予約は当日でいいと、予め調べていた
もの。
至仏山をバックにしばしの休憩
3.気負いこんで湿原に入ったが...  一息入れた後、至仏山を背に、燧ガ岳を正面にみて3人は今岡を先頭に湿 原を歩き出した(まだ群馬県側)。天気もいい。  尾瀬はその湿原の美しさとともに森林美も見事だ。季節によっては見るも のを絵画の世界かと思はせる。  今岡、福間も予め、こうした尾瀬の概略を調べてきたでのあろう、燧ガ岳 の麓まで、ほぼ直線に延びる2条の木道を勇躍、早足に歩きだした。振り返 ると残雪の光る至仏山が、優美に3人を見下ろしている。2人は幾度も後ろ を振り返る。正面には、これも残雪の燧ケ岳が、その麓をうす白く霞ませて、 われわれを手招きしているようだ。他に散策する人達の姿はもう少ない。  しかし、行けども木道の左右の湿原は水面の上に、細い藁(ワラ)のよう な枯葉が幾重にも重なって、それがくすんだ色で赤茶けて見え、その単調な 景色だけが続く。  しかし、よく見ると、その重なった細い藁状の枯れ草の間から、新芽がい っせいに吹き出しているのに気がつく。  左右に見へる、はるか山裾の新緑のブナやオオシラビソの木立も今ひとつ だ。今岡、福間の口数が少なくなる。気負いこんだ2人の肩が、こころなし か落ちたようだ。  下界はもう夏に衣替えだが、ここはやっと早春に入ったところ。尾瀬の舞 台はその第一幕が開いたばかりだ。
前面にそびえる燧ケ岳
4.水芭蕉に何を思う... その時だ、その赤茶けて黒ずんだような枯野の湿原に水芭蕉が辺り一面に咲 いているのに出会った。あるある、大小さまざま。「これかー」、「なるほ どー」、「ふうーん」、「いいねー」と、3人はしゃがんで覗き込む。木道 の左右に次々と見えてくる水芭蕉。  緑の葉とともに形のよい清楚な白い花。これが赤茶けた、また黒ずんだよ うな枯れ草の湿原のなかで、大柄なその花の白さが、よけいに際立つ。  今岡、福間は、水芭蕉に託して何を考えているのであろう、知るよしもな いが、それぞれの記憶の彼方に自分を、おいているのであろう。この水芭蕉 に出会うと、なぜかいつも感慨に浸らせてくれる。なにやら、ざんげの気持 ちにもなる。  「だけどおい、よくきたな、ここまで」と福間がつぶやく。「ここまで」 は、それぞれが生きてきた、これまでのことだろう。「ほんとになー」、お じさんたち、若き日、机を並べたものたちが、めぐりめぐって尾瀬の湿原に 立っている...。花の形が宗教的でさえある、この水芭蕉を、のぞき込む姿 は、おじさんたちでも、さまになる。これが他の可憐な花であれば、すこし 面映いが。2条の木道の間に、リュウキンカ(キンポウゲ科)が、控えめに 咲いている。ショウジョウバカマ(ユリ科)もある、よく見ないと見過ごす。  山小屋には、ちょうど5時前に着いた。収容人員100人以下の小規模な 山小屋を選んでおいた。食堂で、わくりが持参したコンロで、これまた持参 した日本酒(ビニールパック入り)で、やりだした。少しヌル燗だが、結構 いける。山登りは、眺めのいい山小屋で一杯やるのも、楽しみの一つだ。話 が弾む。こうして第一日が終わった。  小屋は3人部屋。尾瀬では今は男女別で、雑魚寝はないようだ。

湿原を彩る水芭蕉

控えめなリュウキンカ

5.只見川の源流から虹を見下ろす
 尾瀬の水は只見川に流れ込む。われわれの泊まった山小屋から約1時間半
のところに2つの滝がある。2日目はその滝を目指して早朝に出発した。
 岩盤上を滑るように落ちる平滑(ヒラナメ)の滝、約500mの長さで続
く。そして、やや下ると次は、高さ約90メートルを一気に落下する三条の
滝(名瀑100選指定)。優美な姿と豪快な姿は印象的だ。いつ見ても優し
い風情の尾瀬にも、こんなところがある。
 6月は水量が豊富なため、見ごたえがあった。三条の滝の落下する水が、
白煙をあげて90m下の滝つぼまで一気に落ち込んでいくのを、切り立った
上から見下ろすため、疲れた足が、がくがくする。帰り道、この2つの滝の
間の谷間に飛沫が白煙となって立ち込め、それが太陽に照らされて、幅広の
鮮明な虹がでている。しかもその虹を、われわれは谷の上から、わずか30
メートル下に見下ろすとは。めったにみられない。
 福間は電力開発の仕事に40年携わった。その意味で、滝は彼にとっての
原風景の一つであり、感無量であったろう。
 この水は日本海に注ぐ。わくりが尾瀬の案内で、只見川ダムは東京電力が
作ったと書いたが、日本が高度成長期に入るその黎明期に作られた、このダ
ムは、電源開発鰍ェ建設したそうだ。福間が訂正してくれた。
 途中、白い花をつけたタムシバ(モクレン科)や、ムラサキヤシオツツジ
(ツツジ科)が、目の前にある。

豪快に落下する三条の滝
6.尾瀬沼をめざして...山の洗礼  昨日、泊まった山小屋まで引き返し、預けたザックを背負って尾瀬ヶ原よ り標高差、約200m高い尾瀬沼に向かった。所要時間約2時間。6月初旬 までの尾瀬ヶ原と尾瀬沼を結ぶこの道は、途中残雪があり、歩行に注意が必 要だ。  今岡は、山が始めてにしては健脚だ。われわれ2人を残して、どんどん先 に行って姿が見えなくなる。その後を2人がふーふーと、追いかけて行く。 追いついては、また見えなくなる。しばらくすると今岡が岩に腰を下ろして 一息入れ、こちらが追いついてくるのを待っている。今岡が2人に声を掛け る。「Are you allright?」、すると福間が「Muito Bon」(ポルトガル 語、verygoodの意)、わくりが「ca va bien」(フランス語、同)と、おど けて応じる。  「おい、どうだ調子ワ」と日本語で問いかけるより、ユーモアーがあって 気持ちがなごむ。この辺が今岡の気配りだ。  残雪の上り坂、難所が続く。わくりの目の前で、福間が足を木の根に引っ 掛け、もんどりうって、大の字に倒れこんだ。周りの景色に見とれていると 足元に注意が行かなくなる。これは誰もがうける山の一つの洗礼だ。今岡も やっているはずだ。例によって今岡が「No problem?」と声を掛けながら、 ニヤニヤしている。案の定、雪道に足を取られ、仰向けにひっくり返った、 と照れながら白状する。  昼過ぎ、尾瀬沼(標高約1600m)に着く。わくりが持参した携帯用コ ンロで、持ってきた餅を、わかめスープの中に入れて雑煮を作る。昼食は、 餅の雑煮だ。  餅は山歩きで腹持ちがいい。味はどうだったか、後日感想を聞いてみよう。
静かな佇まいの尾瀬沼
7.尾瀬のトイレ考  尾瀬の山小屋のトイレは、すべて水洗になっていた。公衆トイレも水洗で 清潔。有料だ。電源は太陽光発電か、ジーゼルエンジンによる発電だろう、 設備が格段によくなっている。だから山登りをしない女性でも尾瀬には足を 運ぶようだ。 8.わが故郷、大山と同じ標高の峠を越えて帰路に  さあ、これから帰路に着く。背後に燧ガ岳、右手に尾瀬沼を見ながら、し ばらく木道を歩く。尾瀬沼も早春で衣替は、これからだ。水芭蕉が尾瀬の第 一幕とすれば、夏、秋の2幕、3幕の舞台を見て、初めて尾瀬の全容がつか める。多分今岡も、福間も再び尾瀬にやって来ることだろう。  尾瀬の山小屋といえば長蔵小屋。その長蔵小屋のある尾瀬の一方の入り口、 三平下(サンペイシタ)から、三平峠(1760m)を越えて大清水に下る。 三平峠で写真を取りながら、「ここは大山と同じぐらいの高さだね」、と福 間。下りの途中、奥白根山(シラネサン2578m、百名山の一つ)が、品 のいい山容を見せている。無事、大清水に到着だ。タクシーを待つ間、尾瀬 完走を祝って岩魚(イワナ)の塩焼きで一杯やる。ここからタクシーで上毛 高原駅に出て、6月3日、19時30分発の東京行きに乗った。
                                       (名前は敬称略)



尾瀬への誘い



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