「龍馬脱藩の道」を探して

平成18年7月30日 
木下 勲 

  2年前の7月龍馬脱藩の道を歩き、最終日泉ヶ峠から県道に下りたところで道が判らなくなり、ギブアップした。今回、その道を探しにでかけた。

 7月25日(火)12時過ぎ、愛媛県松山在住の同窓生・苅家寛一郎君運転の車で、松山から内子、宿間、御禊(みそぎ)を経て泉ヶ峠のたもとに到着。前夜は道後温泉で、広島時代の同窓会だった。車中、本降りとなったがこの時はやんでいた。この県道は狭く険しく、かつ不案内なので一筋縄では走れなかった。

 峠のたもとには、「龍馬らが脱藩途中に泊まったところ、、、」との案内板があった。脇の石段を登ると、そこが泉ヶ峠だ。「坂本龍馬宿泊の地」の碑がある。2年前は、碑を右手にみて標識に従い真っ直ぐ進み、突き当たりの小屋脇の崩れたような階段を県道に下りた。今冷静に見ると、その崩れた階段は道ではない。あの標識もなくなっている。碑を見て、振り返って、石段を県道に下りればまず問題はなかった。

 次に、あの時発見できなかった、県道から耳取峠への登り口を探した。今回は二人のせいもあり、意外と簡単に発見できた。2年前はもっと草が茂っていたように思う。これで、2年間のモヤモヤがすっ飛び、すっきりした。偶然であるが、山を下りたら四国地方は梅雨が明け、カンカン照りの真夏になっていた。


碑には「坂本龍馬宿泊の地」とある


耳取峠への登り口(判りにくい)

 内子に戻り昼食。龍馬らが川舟に乗った「亀の甲」の所在を尋ねたが、ここは知る人なし。ここなら判るはずと、五十崎(いがさき)自治会館に飛び込み尋ねた。それは私の家の近くですよと、丁寧に教えてくれた。案内板があり「ここから龍馬らが川舟に乗っていった、、、」との説明があった。


「亀の甲」の案内板

 舟着場に降りてみる。川の中に石を積み上げ、小さな出島ができていた。亀の甲羅のようにも見える。もやいを結ぶ石まであった。


船着場跡にて

 次は大洲まで足を延ばし、2年前に新築された大洲城に入った。肱川の川べりに立ち、天守からの肱川の眺めはすばらしい。龍馬らは逆くに、肱川からこの大洲城を見上げたはずだ。城内は冷房がなく35、6度あったろうか、汗がドット噴出し早々に退城した。


大洲城の入場券

 今回の旅で道がはっきりしたので、3月か4月まむしが動き出さない時に、泉ヶ峠から亀の甲まで、あるいは檮原から亀の甲まで歩きたいものだ。

松山、大洲周辺図

 



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