大和心を伝え続けた我らが先輩
藤江敦美(H28/03/12) 「よくぞここまで長生き出来た もんだな」と感じます。 家族や周りの方には心から「お陰様で〜」と言っていますが、「有り難い」という実感はようやくこの頃、増加して来ています。仕事の、グループの、仲間や家族を含め、全ての人に、人付き合いの悪い私に 合わせて付き合って下さる方々に感謝です。 面白い仕事が増えて来るので 日々学び、楽しみです。 11月、そのハゼの紅葉の始まりを見てすっかり気に入りました。 葉の繁みが次第に紅葉して行き、燃え盛る様、落葉が地面を彩る様、風に吹かれて葉もつれ合いながら飛ぶさま、などを毎日見て夢中になり、以来大フアンになりました。その落ち葉を一枚、机に飾っていますが、まだ赤いです、怪しげな危険そうな赤です。 次に、懐かしい 俳句に再会しました。25年ぐらい前に読んで感涙した本「収容所から来た遺書」ノンフィクション作家辺見じゅん著 に掲載の句に、去る1月18日の毎日新聞「余録」で、出会った事も「有り難い」事でした。 遠く離れた隠岐の我が子4人を、氷柱に見立てて読んだ句 【 小さきをば 子供と思ふ 軒氷柱 (のき つらら) 】 作者は戦後のシベリア抑留中に病死された元満鉄職員、元関東軍特務機関員の山本幡男氏です。同氏は隠岐郡西ノ島出身で大正15年旧制松江中学を卒業(第46期)後、東京外国語大学入学、ロシア語を専攻されています。 山本さんが家族に残した遺書の中で触れられている「ご長男 顕一さん」は松江高校我々の3年先輩の5期生です。昭和28年にはご一家は松江市内にお住まいだった、かも知れません。 本の著者、辺見じゅんさんのコメントをご紹介します。逸見さんは本著に対し”講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されています。
両国中立条約を一方的に破り戦闘開始し、をポツダム宣言9項に違反する、「65万人捕虜の抑留、強制作業を強いた」ソ連。いつ帰れるとも分からない日々に俘虜たちは希望を失い、疲弊し荒んで行く。 その中で日本文化を学ぶ機会を提供し、帰国への希望を持ち続けるよう支え、一同の精神的支柱となり続けた山本幡男 氏。 その手段の一つが句会で、時には監視に見つからぬよう、注意しながら、お風呂の脱衣所、休憩時間の日向などでも開かれた都合200回。 最後は引き上げ船 興安丸の中で、だった。 【 地に書いて頷き合うや 日向ぼこ 】 凍りついた土には、釘で句を書いた。 「湯上りの匂いも混じる 夜学かな」 厳しいノルマで疲労し、激しい飢餓 洗脳 など で亡くなる人も出た。 収容所で亡くなった須貝氏への追悼句 「 寒月は 満つれど風の 鳴く夜 かな」 山本氏もガン発症し、手の施しようがない状態となる。仲間たちの依頼にこたえて、 遺書を書く様に薦められ、 激痛と腐臭の中、一夜に4500字の遺書を 清書し上げる。 この遺書をどうやって日本に持ち帰るのか。字を書くだけでもスパイとされ、帰国の望みは絶たれる恐怖。 句友 中心に 選抜7人が分担して、記憶して届ける作戦が始まった。 氏、 1954年(昭和29)8月25日 逝去。 2年4ヶ月後の 昭和31年(1956年)12月 シベリア最後の引き上げ船興安丸で友人らが帰国。 松江市から埼玉県の大宮市に転居されていたご夫人、 山本モジミさんに半月後、第一号が届けられ、続いて 小包で、或いは、持参されたりして、最後のは30年後に届いた。 経過は以上です 。 私は山本さんの、考え方、生き方、作品を郷土の誉れと思います、苦しい時、手を取り励まし合い、共に支え合って生きて行く姿勢は、私たちへの教訓であり、忘れずに長く伝えて行くべきでしょう。 政府も、もっとこの事を、この人を、顕彰し、その栄誉を褒めて上げては如何でしょう。なぜ出来ないのでしょうか? 出来ない理由があるなら、私達が取り組めないでしょうか? 道徳修身の教育がほぼ 無い現在、私たちは現実の中から教材を見つけ、子らに伝え、活用出来れば幸運です。 今、此処にその一つがここに、あるのです。私達は何を子孫に伝えますか?(終り) 西ノ島国賀海岸に建立された山本幡男氏の顕彰碑 |