人生、後半ロスタイムに入りました

                      日野 康男 (H28/02/21)

 喜寿。主審(=神)のフエがなるまでの間に、思い出される我が人生のエポックを記してみました。

○出自
 私の場合1937年4月2日生まれですから皆さんより1年早い。4月1日生まれは早生まれになり、新学年は4月2日生まれからだそうだ。本当の誕生日は3月の終わりだと祖母が教えてくれた。なぜ1年遅らせたのか父に聞いたら体重が700匁しか無かったからだと言った。かなりいい加減ですね。入学は浜田市の松原国民学校。記憶していることは少ないが運動会でチャーチル、ルーズベルト、蒋介石の人形を竹槍で突いてリレーした記憶がある。

○8月15日
 終戦の日も良く覚えている。父と二人松江に帰省するために、朝9時頃から浜田駅で汽車を待つけど全然来ない。そして正午、放送を聞いてきた父が、どうも負けたようだと小声で近くの人たちと話していた。前夜、防空警報がでて浜田城の防空壕に逃げたとき、お殿様(みんながそう呼んでいた)が明日正午に重大放送がありますと言ったのを、確かに聞いた。その夜は流れ星がたくさん見られ子供たちは興奮していた。結局乗れたのは3時頃だと思う。大変な込みようでラッシュ初体験。花嫁衣裳の女性を、皆の協力で車内に入れた強い記憶もある。雑賀町の実家に着いた時、辺りは闇夜でした。それ以後8月15日の夜には、暗くなる時を確認する癖がある。 1946年6月松江に帰ってきた。言葉の違いにはまいった。ヤッキなど初めて聞いた。ヤッキノキンタマガハレツシタは簡単に覚えた。

○松高時代のこと
 松高時代は本当に楽しい思い出しかない。馬鹿ばかりしていたから、それは楽しいはずだ。BARに初めて訪れたのは3年のとき。7期の連中が、アベック通りの店を、帰省した際に溜り場にしていた。通学には下駄。雪の日には苦労したけど履き通した。初めて広島に来たのは1955年の夏、第1回原水禁広島大会に参加、加納勇一先生も一緒に、宿泊は千田町の広大寮。木次線でのんびりと。汽車には国鉄スワローズの連中が乗っていた。高校生の大会は宝町の山陽高校、いまはフジになっています。世界記念聖堂の最上階に登ると瀬戸内海が一望できました。

○手術
 1959年初めて入院した。盲腸。手術を担当してくれた先生はジョン万次郎の直系四代目中浜博氏。彼の著書「中浜万次郎 アメリカを初めて伝えた日本人」、これは良い本です。

○帰松とさくらもち
 昨年11月の同窓会のとき、妻と2泊ホテル白鳥に宿泊したが、大浴場に入浴する際手摺りが全く無く大変不安でした。入浴している人もなく万一のことを考えシャワーで済ました。帰りには、ご縁の国しまねのプレミアムおみやげ券を利用して、沢山のおみやげを求めました。また、滞在中は、松江にいる姪御をしっかり利用しました。今の時期に購入できませんが桜餅も出雲地方特別のものですね。長命寺は出雲地方特有の桜餅です。こちらで売っているのは道明寺がほとんどです。中西柚香の「冬のあさがお」のなかの「さくらもち」、短編ですが面白い文章です。中西柚香、勿論知らないと思いますが広瀬町の奥にある加納美術館の名誉館長加納佳世子さんのお姉さんで、長年呉市で教師をされていた人です。松高1期生のHP一双会のはなしの広場2015の中で特別寄稿加納佳世子さんの文章があります。中西柚香の本「夏行く」も有ります。

○家内の故郷・富山県のこと
 昨年9月義母の法事で富山にいきJR西日本とJR東海の接点の無人駅、猪谷に行ってみました。乗務員全員が交替します。線でもひいてあるかと考えましたが何もなく少しそこらを歩いて帰りました。ビールを頼んで何もない街ですねと話したら、全くのシャッター街ですと返事が返ってきました。四十年近くシャッターを売ってきた自分にはあまり面白くない話ですが、どこでもその言葉が出てくるので慣れました。妻は婦負郡婦中町の出身です。四大公害病のイタイイタイ病はこの町を有名にしました。おわら風の盆で有名な八尾町は車で十分くらいです。高橋冶の「風の盆恋歌」で有名になりました。1985年くらいの作品です。中年の男女の不倫を書いているそうです、読んでいませんが。

○リハビリ生活
 心臓リハビリは週二回火曜日と金曜日。ビデオを見て体操約三〇分、休憩して自転車をこぎます。自転車には負荷を掛け少しずつ負荷を強くします。時間は現在20分。血圧、脈拍は常にモニターで表示されています。家でブラブラしていても体を動かさないので、気持ちの良い疲労感が得られるので私的にはよしとします。料金は1割負担で1回690円。そろそろ手摺りが必要かなと思い、介護保険利用できないか知人に相談して手続したら要支援1の通知がきました。

○出会い
 いろいろな所で同窓の人に出会います。3年ほど前の12月南スーダンで大変な動乱がありましたね。
この時、娘が現地でJICAの専門家として活動していましたが、JICA南スーダン事務所長が29期の花谷氏で、それだけで親として安心感がありました。
                      
        それではこの辺で、新しい出会いを楽しみに、筆をおくことにします。


次は藤江敦美さんにお願いします。




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