あるがままに
今岡 宣美(H27/05/11)
生来の鈍感のせいか、喜寿の齢になっても格別の感慨は沸かない。心境の変化も見当たらない。ただ、人生を400メートルのトラックレースに例えれば、最終コーナーを回ったランナーであることには間違いない。体力的にも限界を知って、過去のスピード感溢れる走法ではなく、余力を十分にコントロールしながらのゆっくりとしたペースである。気が付かない内にゴールアウトを理想とする。サプリメントを嗜好する訳でもなく、食事面で特に気を配ることもない。 高校時代の親友のT君夫妻が二人とも癌に襲われ、その病魔との戦いが長い間続いていた。彼らは療養中も不思議に朗らかで明るく振舞っているので不思議に思い、尋ねてみると「くよくよしても仕方がない。全て神様にお任せです。」という返事が返ってくる。お二人とも世俗を逸脱し、澄み渡った心境にあったと想像しました。亡くなった彼から教わった「あ」で始まる処世訓が今も脳裏にあって、時々口ずさんでは彼を偲んでいます。 「あわてず、あせらず、あてにせず、しかして、あきずに、あきらめず。」
退職して15年以上が経過し、毎日が日曜日の連続。それでも体が赴くままに動き回わる。ノウハウものとしてよく読まれているのが「退職後の余生を有意義に過ごす方法」の類だそうだ。もともと余生という言葉は人生の余り物の時間のような響きがあり、「余生を送る」は人生の活動期を過ぎた残りの部分を隠遁者よろしく草庵暮らしのイメージが結びついて受容し難い。余り物ではなく、これからが実りの人生と私流に受け止め、老春を謳歌する。いずれにしてもあくせくしないこと。アインシュタイに I never think of the future. It comes soon enough. という言葉があるのを思い出しました。いずれお迎えは遅かれ早かれやってきます。 翻って体調はどうかと問えば、目がしょぼくれたり、耳が遠くなったり、足腰が重くなったりと、長旅の蓄積がそれなりに身体のあちこちに侵食している。ゴルフの飛距離が落ちる、読書時間が短くなる、長距離ドライブが苦になるなどの兆候である。それでも生活面に支障が出る類のものではないので、それこそ深刻には考えず、なるようになれと諦めることが最善策と心得ている。 最近テレビや新聞報道でよく目にするのが認知症問題である。我々が米寿の歳になる頃には老齢者の5人に1人が認知症になるとの予測に驚愕する。現に身近なところにも認知症の友がいたり、介護や看護で大変な思いをなさっている家族の方も大勢いらっしゃる。最近の我が家の食卓での会話もこのテーマが主流。他の大病は致し方ないとしても、この認知症だけはなんとか避けたいものだと願いつつ、さて予防策として何を心がけるかと頭を巡らす。服装等身の回りに無頓着になったり、何事にも興味が薄れ意欲がなくなり、趣味活動等が遠ざかるとその兆候だと脅かされて身を引き締める。 「忙人は老いず、流水は濁らず」との戒めがある。せめて、無聊故に濡れ落ち葉症候群のごとくテレビの前にへばりつく爬虫類的種族に陥らないように気を配り、交流の機会があれば積極的に出かけるなどプロアクティブな姿勢を心掛けている。 次は周藤憲正君にお願いします。 |