立山に昇る
昭和30年7月12日
三上 祥恵(京都市在住)

 日本人は海も山も川も自然の生きとし生けるもの、すべてに神を感じ、敬い、登山するも山を征服するという感覚を持ちませんでした。山を拝し、神の領域に入る、修行の場と捉えてまいりました。

  先の帝、昭和天皇はこう歌われています。

    立山の空に聳ゆる雄々しさに ならへとぞ思ふ 御世の姿も

 その雄々しい山、富山の名山、立山に私は登ろうと思い立ちました。人様から、その歳で登るの?と、不審の目を向けられようと、一向に意に介しません。二十五年前、主人を亡くし、また去年は息子までも先立たせてしまいました。母親として失格の私は、我が子はいつまで経っても幼子に思え、ああすれば良かった、こうしてやれば良かったと出来もしない後悔ばかりしているのです。そんな日、本当にあの世というものがあるのなら、いや、あると信じよう。そこで歌ったのは、
     
     ぬばたまの六道の辻で待てしばし、父坐(ま)す雲上(くもへ)に手をとりゆかん
                              
 富山に聳える立山、別名、雄山、トト(父)の山へ登ろう!さすれば六道の辻で待っている息子と一緒に亡夫の元へ行ける。そう思ったのです。

 7月3日、快晴、私は屈強な男性に伴われ、登山に慣れた横浜の友達と登ることにしました。立山は標高3015b。朝9時発のケーブルカーに乗り、高原バスに乗り継いで私達は10時15分に標高
2450bの室堂に着きました。

 さてそこからが大変です。7月というのに一面の雪、高原バスの最終地点では7bの雪道を通り抜けるのですから、少々の雪ではありません。その雪道を登山靴を履いているものの、慎重に歩まねば滑って滑って進むことが出来ません。滑って足を取られながらもどうにか2900b地点の一之越に着きました。

 そこから上は岩山。目の前、そこに頂上が見えています。けれど、共に来た男性が、「ここから先は危ないから、お二人は此処で待っていて下さい」と言われ、仕方がない、諦めようか。しかし、一体、私の決心はどこにいったのか。男性が登り始めてから暫く休憩をとると私は、やっぱり登ろう!友に荷物を預けて登り出ました。頑丈な岩にしがみつきつつ、足元の小石に足を取られないように一歩、道無き岩山を一歩、一歩。下を見れば遙か下に友の姿が見え、足がすくみます。

 けれど頂上はすぐそこに。「こんにちは!」若者が一人二人追い越して行きます。その声に励まされ一歩、また一歩。ようやく1坪位な平かな地に辿りつきました。晴れ渡った青空、峻厳な岩山の頂上に小さな社が見えます。さあ、もう一歩だ!と思った時、遙か彼方から亡夫の声が確かに聞こえてきました。「この先は来るな!」厳しい声です。若者なら後30分で登れるだろうのに、無理をするなということか、私には、近づいてはならぬ神の領域なのか。一抹の寂寥感に覆われました。亡夫の声なら諦めずばなるまい。

 一年間抱き続けてきた思いも諦めねばならぬのか。私にとってこれは大きな決心です。でも亡夫の意思なら諦めずばなりますまい。過去の思いに囚われるな!そう言われたような気がします。それを自分自身に言い聞かせて…。

 既に時間は岩山を登り始めてから2時間経っていました。午後2時です。初めの予定では帰りのバスは4時のはずでしたがそれには間に合わない。どうにか岩山を降り、雪道を滑ったり転んだりしながら帰りの道を急ぎます。苦心惨憺する私にアメリカの青年が自分のステッキ2本を貸してくれました。「下で待っています」と言い残して。

 漸く室堂のバス停に着きました。青年は待ってくれていました。6時の最終バスに辛うじて間に合いました。皆に助けられての立山登山。頂上までは登れなかったけれど、もうすっきりしました。日常の生活に戻ろう。

  京都の七月は祇園祭一色に染まります。十七日の前祭、二十四日の後祭の巡幸を前に町屋のあちこちで祇園囃子の稽古風景が覗き見えます。どうぞ縁あれば、皆様も見に来て下さい。私宅も前祭に四人、後祭に三人、来客と一緒に楽しむことに致します。
 

辿りつけなかった立山頂上

立山に登って手を挙げる私80歳




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