心の母子手帳 
    
2008.11.26   
熊 谷 和 恭   

 このところ我々の想像を超えるような悲惨な事件がよく起る。そうした報道に戸惑いを感じながら中学校教員だった昔を思い出す。
 昭和44年頃、学校の教室前面の整理棚に置かれた花瓶の生花が殺風景な環境を和ませてくれていた。
 その花の水代えは、黙っていてもクラスの誰かが気をきかせた。3年後、気付くものがいないので、私の「花が水を欲しがってるよ」の声掛けで漸く誰かが自主的に行動を起こす。それから更に3年後、注意を喚起しても誰も動かない。「Aさん、お願いできないかなー」の呼びかけにより、指名されたものがやる。更に3年後、私の指名に「何で私がするんですか」の言葉が返る。しかし、「頼むよ」という重ねての依頼でしぶしぶ動き出す。
 あの頃から、教室風景の中でも子どもたちの変化が急速に進み、今もその現象は続いている。その要因は色々言われているが、家族構成の変化を切り離しては考えられないように思う。即ち、核家族化に伴う家庭の養育環境に大きく関わり、併せて地域コミュニティの変化、父母の養育姿勢の変化も著しい。極端な言い方をすれば養育放棄の現象さえ起り始めている。ロッカー子ども産み捨て事件などがその顕著な例であった。そして、子どもの感性の豊かさを育てる家庭、地域、社会環境が変化し、もはや昔のようには戻せなくなっている。
 そういう現実を目の前にして、当時、私は対応策としてあることを考えた。それは「心の母子手帳」の義務付けである。「体の母子手帳」は、あくまでも身体の健全な成長を見守るのが目的である。昔は、それで十分だったのだが、子どもを生んだばかりで、子育て無経験の母親にとって子どもを育てることは大変な業である。大家族で祖父母の助言を得ながら自然体で育てた往年の環境はもはや過去のことになったのである。
 「心の母子手帳」とは、新米の両親に「子育て講座」を義務付けるのである。義務付けなので、国の強力な対応が必要であるのは当然であり、それなりの国家予算が伴う。当時、勤務していた大規模中学校の校長に、このことを話すと「そりゃーいい考えだ」と賛同してくれた。それに力を得て、折に触れて関係の会合等でこのアイデアを力説してきた。しかし、実現には至らず今日を迎え、最近ではモンスターペアレントなる言葉もある。これらは子育て環境の変化と無縁であろうかと思い、もう少し早く、その変化に対応する措置を講じておれば、或いは昨今の常軌を逸したような事件は…、と思うのは私だけだろうか。
 その後(平成11年頃)、第二の職場で保育士の研修を担当していたが、主任保育士らが保育所に預けられる幼児たちに向かって「あなたは本来ここへ来るべきじゃやないのにねー」とのつぶやきを側聞していた。ところが、五年後、「あなたはここにいるのが幸せなのよねー」に変化していった。育児ノイローゼ、虐待が顕著になりだした頃である。このように育児問題は、少子化と共に社会的な大問題となっている。
 先日、NHK「おはよう日本」で、愛知県小牧市の取り組みを紹介していた。それは「母子手帳」の15歳までの延長である。しかも、手帳を介して保健師が「親子のつながり」について相談、助言にあたるという。正に、「心の母子手帳」の発想である。また甲南女子大学では、大学生に母子手帳を持参させ、それを使った授業をしているという。初めて自分の成長記録をみた学生は、想像以上の母親の子育ての苦労を知り、感謝の涙をこぼすということであった。
 その昔、私が考えていたことに通じるものがあり、社会が漸くそのことに気付き始めたのかと、わが意を強くしている。今後、そうした試みが拡大していくことを願っている。
 

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