(続)人の行動とイメージ
    
2008.10.10   
熊 谷 和 恭   

 前回に続いてイメージの効用について感ずるところを述べたい。
 先ず、何かを言いたい書きたいときのことであるが、やはり、その人の体験のイメージがその基盤になるように思う。
 私は、職業柄(元教員)時々話したり、書いたりすることがあった。特に、各種の文集などに原稿を頼まれると、あれこれ悩みながらも締切り直前までほったらかしにしておくことが多かった。しかし時々頭の隅に原稿のことが浮かび、早く何とかしなくてはと、焦りにも似た気分がその期間中続く。幾度かそんな体験をする中で、そのように悩む時間が無駄でもったいなく、精神的にも良くないことに気が付き、ある方策を思いついた。 
 それは、随想リストの作成である。物心ついた幼い時期に始まり、紆余曲折これまでの人生の体験を幼年期、少年期、青年期、壮年期…、と順を追っていろいろなエピソードの題目を作り上げたのである。当然すいすいと出来上がるはずもない。折に触れて思い出す出来事をその都度メモし、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、社会人時代…と整理していった。さらに、時流にそった現代の話題についてのコメントもメモしていった。こうして半年余りで百を越えるリストが出来上がった。それ以後、原稿を書くときのつらさから開放された。
 本題との関連であるが、このリストづくりにイメージが大いに役立った。幼年期:夕暮れの砂浜に座り沈み行く真赤な夕日を眺めたあのふるさとの情景、少年期:夏の遊泳場となった灌漑用水の堤での高校生の溺死体の白蝋にも似たあの不気味さ、青年期:中国五大学水泳大会を目指してカエルと共に懸命に練習に励んだあのおんぼろプールなどなど、全てイメージを浮かべながら記憶を引き出してメモしていった。ところがこれは過去のことにあらず、今、ここで当時のイメージ(思い出とも言えるか)を浮かべながらこのように随想を書いているのである。まるで、イメージは人の記憶の宝庫を次々と開いてくれる魔法の扉のように、私には思える。
 次に、人前で話すときのことであるが、いろいろな会でいろいろな人の話を聞く機会があるが、退屈な長話は禁物である。特に、結婚式でご馳走を前に長話をする人があるが、あれはいただけない。それを防ぐには、立場を変えたイメージづくりが役立つような気がする。簡単なことであるが、自分が話す内容を聞く人の側に立って吟味するのである。そうすることにより贅肉がとれ、均整のとれた爽やかな話になる。それには、やはり原稿を書くことである、アウトラインだけでは、横道に入ることが多く、そこからなかなか抜けきれなくなり、本題に戻るのに時間を要することになる。
 スポーツの世界にもイメージトレーニングという言葉がある。これは、競技力や集中力の向上、望ましい緊張感の維持(あがりを防ぎやる気の醸成)などに効果があると言われている。私も、平成6年からJSS松江に所属し、時々シニアーの水泳大会に出場したが、これはイメージづくりがどうしてもうまく出来なかった。8年間通っていたのだが、週一回の練習時間では不十分であり、大会に臨んでイメージづくりしようと思うのだが、どうしても浮かばなかった。これは、おそらく練習時間の不足、経験の浅さがその一因ではなかったのではないかと思う。勿論、当初の目的が、健康維持、ストレス解消などであるので、レースはその副産物であり、それなりの成績で満足していたからかもしれない。
 日常生活においても人の行動はメンタル面に影響されやすいと思う。意識的にイメージを活用することで、そうした側面を少しでも解消出来るのではないかと思う。
    
 

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