人の行動とイメージ    

2008.08.31
熊 谷 和 恭

 人がいろいろな行動をするとき、それなりの準備をする。そのひとつにイメージづくりがあるように思う。イメージを描くことにより、気持ちを和らげ、気分転換し、ある種の緊張感をほぐし、その行動に集中できる。
 眠れないときに眠ろうとしてめぐらすイメージ、何かを言いたい書きたいときに思い浮かべるイメージ、スポーツをするときに成功する姿を描くイメージ、人前でカラオケを歌うときや講演をするときのかっこいい自分のイメージ等々である。
 こうしたイメージをつくり上げるには過去の体験が大切で、体験の少ない者ほど、そのイメージは貧弱で、行動にも十分な自信が湧いてこないような気がする。体験の内容とは、経験、学習、練習、予測、場慣れ、下見などが考えられる。伝統も含まれるかもしれない。
 このように考えてくると、例えば各種の大きなイベントの参加者が会場の下見をするのは、大きな意味があるのだということがよくわかる。
 余談であるが、この下見で忘れられない思い出がある。
 昭和42年ごろ、田舎の中学校の3年生を担任していた頃の話であるが、高校入試を迎えた3月中旬、松江北高校を受験する生徒たちを下見のため、前日試験会場へ連れて行った。懐かしいあの川津校舎の廊下を歩きながら、青春時代の思い出に浸っていた。そして試験場の一室でもあるあの我が10ルームの教室に入り、教室の黒板を背に眺めると、右後方の板壁に数枚の白い名札のようなものが見えるではないか。ある種の期待に気持ちを高ぶらせながら近寄った私の目に飛び込んできたものは…、あの懐かしいクラスメートの名前であった。荒木、石倉、石谷、今村、祝、岩崎…、右板壁全面に渡り、当時のコートかけの名札が、まるで板壁の一部であるかのように張り付き、模様のように残っていたのである。あれから10年、毎年教室の主は変わっていたのにも関わらず、どういうわけか我ら8期10ルームの思い出がそこに残されていたのである。まさにその運命的な再会に感動したのを今でも鮮明に覚えている。
 それから8年後その川津校舎が壊されることになり、廃棄される備品で使えるものを譲るということで、松江の勤務校から他の職員と共に2トントラックで取りに行った。校舎に入り一目散にあの思い出の教室に駆け込んだが、さすがにあの板壁の名札模様は薄くなり、殆ど判読できなかった。翌年、校舎は今の国引きメッセとして生まれ変わった。
 さて、本題であるが、ここでは一つの例として、寝床についても眠れないときについて述べたい。
 一般的には数を数えるなどがよく言われる。私もいろいろと試みたが、その中の一つに、夏であれば、キャンプのテント、臨海学校での体験を心に浮かべる。必ずしも平坦でないごつごつした地面や教室の硬い床面での雑魚寝のことを思えば、寝苦しいとはいえ、平らで柔らかな布団の上はまさに天国で、無上の幸せと感じさせる。冬であれば、夜行バスや列車の座席や寝台を思い出す。今と違い昔の狭い三段ベッドで窮屈な一夜の寝苦しさに比べれば、十分に足も伸ばせるし、寝返りも打てるし、こんな幸せは他にあろうかと思うわけである。要するに、今置かれている環境が、いかに好条件であるかを心に言い聞かせるのである。そうしていると心身ともにリラックスしいつの間にか眠りに入ってしまうのである。
 余談もあり、本題について十分意を尽していないので、次回も同じテーマで書いてみようと思う。 
  
 


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