習うより慣れろ 

2008.06.07
熊 谷 和 恭

 「習うより慣れろ」 島根大学時代、英作文演習で習ったこの言葉が妙に心に残っている。
 指導者の佐川雨人先生は、かなりご高齢であったが、余技の俳諧の世界でも有名で、俳句の選者としても活躍されていた。専門の英作文は、井上靖の「氷壁」に出てくる日本語独特の表現を英訳するという興味深いものであった。
 " Practice makes perfect "がその英訳である。
 大学卒業後教職の道に進み、38年間の教員体験を通して、いつもこの格言の確かさを感じていた。従っていつの頃からか、卒業生が持ってくるお別れサイン帳には必ずこの言葉を書いた。
 私が感じるところ、この言葉の意味は「我々がひとりの人間として生きていくための知恵や手立てを学ぶのは、他から教えてもらうのではなく、自分の体験、実験そして繰り返しの稽古による」ということではないかと思う。
 私の20数年にわたる中学校卓球指導でのささやかな経験によると、やはりレギュラーになるような選手は、みんな練習熱心であった。いくら素質があり、指導者の理論的な教えに対しての飲み込みが早くても、練習嫌いの子は、最終的には練習熱心な子に追い抜かれていった。それに、対外試合で勝つのは、練習時間によることが大であることもわかった。ただし、これは消費時間でなく、内容の密度に左右されることも。即ち、結果的には本気の練習時間が多いことに行きつく。
 一方、その道のプロ、いわゆる職人芸と言われるものは、伝統的な技を自分で盗み、自分で修行したものが多いという。これまた練習時間の長さによるものであり、これは「修練」という言葉で表される。
 ある時、論語「学而第一」で「学而時習之、不亦説乎」(学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや)という言葉を見つけたときは、「まさに、わが意を得たり」であった。
 老いてから手を染めたパソコンは特にこの言葉が当てはまるようである。テキストに従って操作を習っても、その場限りで終わってしまい、いざとなるとその一部しか覚えていないというケースが多い。
 日常生活においても、例えば学校で習った知識は、私たちの実生活でどれだけ役立っているのだろうかと疑問に思うこともある。むしろ、実体験を通して身につけた生活上の知恵こそが生きて働く力として活用されているというのが大方の考え方であろう。そうかと言って「それでは学校で習うことはあまり意味が無いのか」ということではない。それは、また別の意味で大変に重要であり、必要なことである。
 このようにみてくると、私たちの実生活の知恵は、かなりの部分において生活体験で、感じて納得し、身につけたものだということがわかる。
 「知識は本の中に、知恵は生活の中に」というユダヤの諺があるが、全くその通りである。知恵者が多いと言われるユダヤならではの格言であり、さすがだと思う。
 
 「習うより慣れろ」は人間の全ての営みの原点ではないかと思え、生活体験の重要性を改めて感ずる。