遊びと子どもたち

2008.05.12
熊 谷 和 恭

 今更ながらの感もあるが、テレビゲームに象徴されるように、子どもたちの遊びは様変わりしている。10年位前には「たまごっち」なるものが大流行し、「バーチャルリアリティ(仮想現実)の中で『育てる』を体験したつもりの子どもたちが、本当の命を現実として受け止めることができるでしょうか」(山陰新報ひとり言フォーラムより)と、子育て中の母親の心配の種にもなっていた。今や、そうした流れを堰き止めるのは難しい状況であり、その流れの中での手立てを考えていかねばならないように思う。
 その第一歩として昔の遊びの効用を振り返ってみよう。
 先ず、集団での遊びは、人が集まり、ちょっとした広場があれば、道具も準備もあまり必要なしにすぐに遊べた。缶蹴り、三周回り、石蹴り、かくれんぼなど各種の鬼ごっこ等であり、そうした遊びを通して集団の大切さ(ひとりではどうにもならない)、ルールの必要性そして自分を抑え、我慢することを学ぶことができた。
 一方、個人的な遊びとしては、竹とんぼ、紙・杉鉄砲、お手玉などがあった。野山で材料を集め、刃物を使っての製作である。集中力が必要であり、ふざけ半分では怪我をする。苦労して出来上がった作品には愛着があり大切にする。勿論、製作過程での工夫は創造力の基礎ともなる。それに比べて、現代のプラモデルは材料が全て用意されていて、余り苦労しなくても割合簡単に仕上がる。そして次々新しいものにとびつくので作品への愛着心も薄い。
 遊び以外でも子どもへの与え過ぎが感じられる。
 学校での落し物は多い上に殆ど落とし主があらわれないという現象はもう随分前からみられる。飽食時代の申し子たちは食事時分になっても、昔の子のように腹が減って一刻も早く食べたいという様子は見せない。そして、好き嫌い、食べ残しも目立つ。更に家族の一員としての役割分担もなく、自分の部屋で時間を持て余しているようにも見える。
 このように、衣食住すべてにおいて与え過ぎなのである。
 これは、昨今の社会を驚かせる色々な事件と無関係なのであろうか。いずれに しても、社会環境の急激な変化が子どもたちの考え方や行動様式に影響していることは否めないと思う。当然、それは大人においても同様である。それは、大人はかっての子どもだからである。
 ここで、子どもたちの遊びに関わる取り組みの一例を紹介したい。
 私の住んでいる松江市古志原には、戦時中の六三連隊の跡地に建っている県立工業高校がある。そこでは、二年前から家庭科の時間に一年生の生徒が、古志原ボランティアの会を中心とした地域のお年よりたちと交流している。クラスごとに、7日間にわたり、竹とんぼや竹笛、お手玉作りなどの指導を受けている。生徒たちは日頃使うことの少なくなった木や竹、刃物などに触れ、昔ながらの生活技術や文化を学んだり、作業しながら昔のお話や、戦争体験などを聞き、時には叱責を受けたりしながら、新たな視野を広げる貴重な機会を得ている。その試みの成果は徐々に表れ、新聞の投書欄や公民館での会合で「最近、工業校生は挨拶をよくするようになり、態度も好感が持てるようになった」との声が聞こえるようになり、古志原にある地元高校というイメージが膨らみ、地域から温かい目で受け入れられるようになっている。
 小中学校と地域との交流はよくある話であるが、高校にもその輪を広げていくことはこれから求められていくことではないだろうか。
 いずれにしても、これからいよいよ進む高齢化社会において、美しい国づくりに必要な「よりよい人づくり」のためのアイデアと行動が求められる時代である。