疎開から七十年

                      森谷 喜男(H27/09/25)


 新しいもの好き故、若いころは自転車で日本橋電気屋街に週一二度は通い、なにか目新しいものはないかあちこちの店を見て回った。特定店の店員さんとなじみにもなり、楽しかった思い出がある。そんな中で、昭和58年(1983)に、初めて我が家にパソコンを導入した。シャープのMZ721,パソコン記録によると、買値は266千円。 当時、パソコンは、会社では展開し始めていたものの、個人で保有する人は今のように多くはなく、活用しているのは6%といわれていた。活用するには、BASIC(各社、やや言語が異なる)でプログラミングする必要があり、これがまた結構楽しみでもあった。
 パソコンやら墨彩画やら、そんな趣味の話を書こうと思っていたら、最近なにかと戦後70年という言葉が飛び交う。私の場合は、やはり疎開先での思い出が強く残っている。というより、それ以前の白潟幼稚園とか一部記憶はあるものの断片的であり、まとまった記憶がない。私の人生の記憶は、ほぼ疎開先の記憶からスタートする。
 小さいころは、1791年創業の第6代目の父の部屋に、子供が出入りする習慣はなかったので、親と遊んだ記憶はまったく出てこない。父は、本業の薬剤師のほかに、松江の画家集団(茜会)に属し、またバーナードリーチ来日の折は陶芸家として同行していたと聞いていたが、戦時の疲れがもとで、疎開先で敗戦の声に落胆し二週間後に亡くなった。今でも、疎開先で膝を立てて寝ていた父の姿が瞼に残っている。
 尋常小学校1年生で疎開先へ。今の東出雲町で中海に面した田舎の大きい家だった。家の一番奥にあたる所に舟小屋があり、そこに豚も飼われていた。疎開先の小学校で国語の本を読み、みんなで竹製のオイコを背中に担いで神社の落ち葉拾いをし、浅い川に浸かって手旗信号の練習もさせられた。
 ある時、大勢の村の人たちがざわざわと笹を担いで家の前を通る。事情は分からないが、近くの入り江に水上機が不時着し(当時は特攻隊の生き残りとも)、それを上空から見えないように笹でかくすためだった。その水上機の飛行士は、疎開先の親戚の2階に日本刀を飾りながら、滞在。私は、そこによく出入りした。
 終戦も近いころだっただろうか、中海の遠く約8km先の対岸の大篠津にある山陰海軍飛行隊美保基地(今の米子空港)から、夜になると探照灯の明かりが、暗い空の低く立ち込めた雲をぐるぐると照らしていた。ある時、中海の空を真っ黒にするかと思うほどの爆撃機がたくさん飛来してきて、美保基地に雨あられのように爆弾を投下した。下からは、高射砲で応戦するものの、なかなか当たらない。一部の爆撃機が中海に落ちそうになり、舟小屋で見ていた人たちから拍手が起こったが、すぐ機首を立て直して空の戦列に舞い戻った。高射砲の音で、舟小屋の豚がしきりに騒いだ。
 後日、思うのだが、疎開先で空襲をみるということは意外であった。こんな形での体験を語れるもっとも若い層になるのかもしれない。ちなみに水上機は、ずっと後日になって中海にろ舟で出た時に、その足の部分の大きな穴が、海の底に暗く揺らぐように見えて不気味であった。
 疎開先でお世話になり、戦後松江に帰ると、商店街の家は、何軒かに一軒、焼夷弾対策なのか取り壊されて閑散としていた。戦争で、家の大黒柱初め、多くのものを失い、厳しい戦後が始まった。
 でも、なんだかだと言いながらこの年まで、生かされてきた。川の流れのように、途中岩にぶつかりながらも、流れ続けて、十数年来の難病をかかえつつも幸いにそれなりに動けて喜寿を迎えられたのは、本当にありがたいことである。上はフランスの医学部生から、下は中東のアメリカンスクール3歳児まで六人の孫、我々年寄は先が知れているが、これからの日本を支える若い人が元気で、平和ボケは困るが、平穏に暮らせる日本であってほしいと常々願っているところです。

        次は鶴島美智子さんにお願いします。