旧交を温めてこなかった反省の弁
                               和久理光正

このホームページで、みんなの高校時代の写真を見るにつけ、懐かしさがこみ上
げてくるその反面、私は高校時代めぐり合い、出会った級友との友情を大切にし
てこなかったことを思い出す。みんなの楽しそうな写真をみながら、その苦い思
いを、今かみしめている。私は高校時代の級友との旧交を温めることなく、自分
のことに、かまかけて「そのうちいずれは」と思いながら、そのままになって過
ぎてしまった。
それも、私にとって高校時代の、その級友とのほんの一時の出会いであったが、
その一時の出会いが、その後の私の心のなかに、大きな影響を与えてくれた、そ
の級友との出会いであればこそ、なおさら何故、そうした級友との出会いを大切
にしてこなかったのかと悔やまれる。その時の出会いを思い出してみては、最近
とみにその感を強くしている。
昨年、平成15年の暮れの二水会で、山田一郎が私に言った「それは、和久理に
も、余裕が出てきたから、そう思えるのだろう」と。その時、山田は他のことで
私と話し合っていたが、私には、このことを指摘された思いで、それがやけにこ
たえた。
そんなある日、私の気持ちを知ってか知らずか、福間三郎が電話とメールで「お
い、お前も高校時代の写真を出して、このホームページに何か書け」と言ってき
た。

私も山歩きが好きだ。若い時から歩き続けた。その集大成のつもりで、60歳に
なった時、ネパール、ヒマラヤのゴーキョピーク(5,357m)まで行ってきた{ヒ
マラヤでは、6,000mまではTrekking(山歩き)といい、6,000m以上を
Exploration(登山)という}。
その一方、厳冬期の富士山(3,776m)は6回登って、一度も頂上に達したことが
ない。
いつも途中あきらめて引き返した。だから自慢できるだけの登山歴はまったくな
い。
いまは、家内と年に2、3回山歩きを楽しむ程度である。

ネパール、ヒマラヤのモノクロの世界と違って、日本の山のもつ四季の自然は素
晴らしい。南アルプスに赤石岳(3,120m、静岡県、中部赤石山脈の主峰、ちなみ
に羽田から出雲空港に向かうJAS機は、富士山を左下に見て、この赤石岳上空
を通り、琵琶湖北端をかすめて若狭湾に出る)がある。もう30年前だが、この
赤石岳を正面に望む麓から朝日をあびて真っ赤に燃えたあがった赤石岳を見た。

炎は通常、下から上に、ゆらゆらとするものだが、日の出をいっぱいにあびて
真っ赤に染まった赤石岳は、その山の輪郭を、はっきり空に浮かび上がらせなが
ら、その真っ赤な炎は真横に見ている我々に向かって、ゆらゆらと吹き付けてく
る衝撃的な光景を見た。高名な女流画家の描いた、かの有名な絵画「赤富士」
は、この朝日に染まった赤石岳をモデルに、富士山を格調高く謳いあげたものと
して、「知る人ぞ知る」である)。厳冬期の2月、アイゼンとピッケルで八ヶ岳
主峰、赤岳(2,899m、山梨県と長野県の県境に位置する)に登った。その頂上か
ら見た雪で白く覆われた真教寺尾根が、朝日に照らされ黄金色に輝く、まさにこ
の世のものとも思われない光景に遭遇した。厳しい自然に接していると、その本
人の持つ「勘」が磨かれる、「感覚」が研ぎ澄まされる。この山歩きで養った
勘、感覚が、しんどかった私の、これまでの人生での、何にも代えがたい「道
標」になってくれたのだと今、間違いなく言える。

2、3年前、家内と燕岳(2,763m)から槍ガ岳(3,180m)を縦走したとき、穂高
駅から燕岳登山口までタクシーに乗った。
これは、その時の運転手さんと私の雑談だ。私は運転手さんの背中に向かって
言った
「長野の地元の人は、意外と山に登りませんですね〜」というと、運転手さん
「そうね、地元の人は登らないね、だって登っても先が見えませんからね〜」。
「うぅん...?でも我々は、ひょっとしたら何か見えるかなと登るのですが
ね...」と私。「で、先が見えましたか?」と運転手さん。「見えないけど、
山に親しんだお陰で、道(人生の)を間違えずにきましたよ」と私。運転手さん
「....」。

少し前置きが長くなった。私が山歩きを始めたのは、私が昭和36年、社会に出
てからしばらくのことである。当時ベストセラーになった井上靖の「氷壁」(昭
和38年、新潮社刊、雪の前穂高岳でのナイロンザイルの切断事件に取材した小
説)を読んで、山への気持をかきたてられた。しかし、それよりも前の高校時
代、クラス仲間と大山岳登山を、苦しみながら、一人の級友に助けられて、やっ
とのことで登頂を成し遂げたことが、私が山と取り組む下敷になっていた。
この高校時代の、夏休みのキャンプ中、大山岳登頂を目指したその途中で、私は
思わぬ痛い目にあって、仲間の一人に助けられた。
ここにご紹介した写真は、高校2年生の夏休みに大山キャンプに行った時のもの
である。高校1年の時のクラス担任、有田先生を引っ張り出して、1年の時のク
ラス仲間達が集まって大山にキャンプに行ったときの写真2枚と、そのキャンプ
から帰って、しばらくして、その仲間が集まって松江大橋を背景にして記念に
撮った写真である。キャンプでは有田先生を囲んで夜の談笑、昼間は周辺の散
策、大山寺では皆で鐘をついたこと、そして大山岳登頂など、私も大いに青春を
謳歌した。
メンバーは有田先生に女生徒は市岡昌子、加納ヒロ子、木村比瑳代、橘 禎子、
小林 玲子、野津清美、福庭俊枝の7名、男子生徒は、安達康二、小畑 健、五島
薫明、竹谷直人、日野和久、福間三郎、米沢直行、和久理光正の8名。その時の
米沢、五島は今はもういない。
紹介する、その写真の中の1枚が、大山の頂上で写した時の写真である。仲間の
姿だけで、頂上らしき背景は何もない、素っ気ない写真だが、私にとっては「苦
い」思い出の写真である。

話はこうだ。そのキャンプで、明日は真夜中起床で大山岳頂上を目指すことと
なった。
希望者だけである。有田先生に男子生徒全員、女生徒は市岡、野津の2名。
真夜中の2時ごろキャンプ地から出発した。私は、白のトレーナ用ズボンに運動
靴、それに軽い夏用セーターという軽装。懐中電灯以外は、水筒も何も持たな
かった。
もちろん私にとって、大山岳はもとより、山登りは初めて。私には登山が、どん
なものか全く分かっていなかった。例の橋を渡ってすぐの登山口から登頂開始で
ある。私はそれ行け行けドンドンの怖いもの知らず。男子生徒の仲間のうちの誰
が登頂1番乗りか、みんなが「暗黙の競争」、のように私は当時意識した。とこ
ろが登っていく途中、次第に私は気分が悪くなってきた。暗闇でよく分からな
かったが、樹林地帯から抜出したところで、私は冷たい風にあたった途端、急に
吐き気と、急激な疲労感、悪寒による震え、動悸による胸の苦しさに襲われた。
今だから分かるが、当時何故、自分だけが、こうなったのか見当が付かなかっ
た。
寝不足、水分補給なし、それに夏とはいえ、軽装では一気に高山病が襲ってく
る。高所登山には水分補給が欠かせない。
しかし、そんなことは私には、分かろうはずがなかった。私は、何も胃袋から出
てこない嘔吐を繰り返しながら、そして悪寒で両肩をわなわなと震わせながらズ
ボンを泥だらけにして、木立の根元にはいつくばり、身をよじっていた。日の出
を見ようとする大勢の登山者達は、ああやっているな、とうい程度で、私の横を
すいすいと通り過ぎていく。
仲間達は「おい、どうした、ゆっくりでいいよ」、「おい、無理するな、引き返
したほうがいいぞ」と声を掛けただけでドンドン先に行ってしまった。
その時「どうした、大丈夫か」といって誰かが、私の背中をさすってくれた。嘔
吐を繰り返し、肩を震わせていた私は、やっとのことで振り向くと日野和久が、
心配そうに私の顔を覗き込でいた。

私は、声を掛けてくれた日野和久を見た安心感と、羞恥心、それに自分に対する
悔しさもあってか、そんな気持ちが、ないまぜになった屈辱感で日野和久の顔を
正視できず、何もモノが言えなかったのを今でも、はっきり思い出す。

日野和久は、終始無言で私の手を自分の肩に掛けて抱き起こし、私を草の座らせ
てくれた。そして私の苦しみが少し和らぐのを辛抱強く待って、私を立ち上がら
せ、歩き出せるのを確かめると、そのまま一緒に頂上まで付き添ってくれた。そ
んな日野和久が私に示してくれた友情を私は若いころ、あろうことか私の記憶の
彼方に押しやってしまった。しかし、日野和久の私に示してくれた、その優しさ
と控えめな気配りが今、私の記憶の彼方から鮮やかに、よみがえってくる。
日野和久も早く頂上に着いて、先に頂上に達した仲間たちと感激を共有できたで
あろう、その荘厳な日の出を見たかったはずだ。しかし、この時日野和久は、私
と山の中腹やや上の位置から、やっと日の出を仰ぐ羽目になった。
そして、仲間の誰かから水をもらって、どうやら私の体調が少し回復し、日野和
久に付き添われ、みんなの待つ頂上にやっと、私はたどり着いた。

私は、いつも北アルプス登山を終えて帰るとき、中央線の列車が夜の新宿駅の構
内に入ろうとして、スピードを落とし始めるころ頃、決まって井上靖の小説「氷
壁」の冒頭に出てくる、この夜の新宿の描写を思い出す。{時計を見ると8時3
7分、後2分で新宿に着く。魚津は大きい伸びをして、セーターの上に羽織って
いるジャンパーのポケットに手を突っ込むと、ピースの箱を取り出し、1本くわ
え、窓の方へ目をやった。おびただしいネオンサインが明滅し、新宿の空は赤く
ただれている。いつも山から帰ってきて、東京の夜景を目にしたとき感ずる戸惑
いに似た気持ちが、この時もまた魚津の心をとらえた。暫く山の静けさの中に
浸っていた精神が再び都会の喧騒の中に引き戻される時の、それは、いわば一種
の身もだえのようなものだ}。小説「氷壁」の主人公は、北穂高岳滝谷で自らの
命を断つ結末となっている。
長野の松本方面から来た中央線列車が、新宿駅に近づく時の夜景は、井上靖が描
いた当時の新宿駅の夜景と今も変わっていない(この場合、新宿駅に向かって左
側の夜景を指す)。
私は、下山して帰るとき、新宿駅に列車が着くころ、いつもきまってこの小説の
主人公とは違った気持ちで身を引き締めていた。「そうだ帰ってきたんだ、さあ
明日から仕事だ!」快い疲れとともに我に返る。しかし今は違う。新宿の夜景を
見ながら、自分の過去に遡る。そうだ日野和久に会はなくては、と頭によぎる。
私と日野和久との高校時代の出会いは、この大山岳登頂だけになった。私は、ま
だ日野和久に、その時のお礼さえ言っていない。松江の同期会11月例会で日野
和久に会い、一言二言交わすことが何回かあった。が、その都度私は、大勢の前
では、と思い大山登山には触れてこなかった。

日野にとっては、突然今頃になって、和久理から名前を出され、顔をしかめてい
るかもしれない。許してほしい。そして心から有難うといいたい。私にとって、
もし日野和久の助けがなかったら、登るのをあきらめて引き返していたなら、今
の私はなかっただろう。この苦しかった大山岳登頂が、この時以降の私の山歩き
で培った私の人生の迷うことのなかった「道標」の、その起点はここにあるから
だ。

木村比瑳代、野津清美、福間三郎は関東在住で今も交流があるが、日野和久、そ
の他のメンバーと、私は旧交を温めることがなかった。みなさん、お元気のこと
と思う。
私の手元のメモには、この時の登頂に要した時間は2時間30分と記してある。
しかし実際は、もう少し時間がかかっていたかもしれない。
いつだか私も60歳を過ぎたある時、家内と2人で、山の本格装備で、往時のこ
とを思い出しながら、この大山に再挑戦した時の所要時間は、2時間には少し時
間を余していた。高校時代の大山岳登頂は、私にとって、それだけ大変なもの
だったようだ。
(文中に記した皆さんの名前の敬称は省略させていただきました。また女性の方
のお名前は旧姓にさせていただきました、あしからずご了承ください)。
                                  了


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