城山

今岡 宣美


北堀橋から

 松江城天守が昨年国宝に指定され、地元では数々のお祝いの催しで盛り上がったという。城山は私が通った母衣小学校(現在日赤の立体駐車場)からは殿町を挟んだ先の比較的近い距離に位置していたので、子供の頃からお城周辺を城山(じょうざん)と呼んで慣れ親しんでいた。いわば、お城はいつも手の届くところにあって、子供たちにとっては格好の遊び場となっていた。「城山に行こう」「城山で遊ぼう」と言い合うのが合言葉で、よく大手前や二の丸方面で戯れた。中でも、今では駐車場となっている大手前は広い運動場の如きで、車の往来も少なく、よくキャッチボールなどして遊んだ。当時私は母衣小学校の野球部の端くれにいたが、その野球部のエースで4番バッターだった梶谷君が二の丸付近に住処があったので、よく二の丸界隈でも屯した記憶がある。その梶谷君は早逝したが、いまベースターズで活躍している松江出身の梶谷選手を彷彿させる面構えであった。

 お城周辺は当然のことながら今のような景観ではなく、本丸にそびえる天守閣も子供の目にはさして関心の的ではなく、その存在すら眼中に無かったが、今から思えばまさに朽廃の様ではなかったか。確か小学校の5、6年の時に天守の解体修理が執り行われ、数人の学友と共に式典に参加させられた。式典の最前列に座らされ、何やら神妙な面持ちになったことが今でも記憶の隅にある。

 城山は桜の名所でも知られているが、当時本丸は自然の佇まいのままで、むしろ二の丸付近が桜見物スポットであったと思う。桜の季節になるとよく夜桜見物に出かけたものだ。暗闇の中で薄赤く灯るボンボリの淡い光に照らされて、桜の花びらが風に揺れて妙に幻想的で、子供心にも何かロマンティックな風情のある光景に映った。

 城山の裏手はあまり鮮明な記憶がない。城山稲荷神社の狛犬や狐や、それに何やら曰くありげな古井戸などがあって、妖気な雰囲気が漂っていた。城の人柱伝説やハーンの怪談など当時大人から耳にすることがあって、そのたじろぎから自然と足が遠のいていたかも知れない。数年前に帰省した折、幼友達が城廻に連れて行ってくれて、ヘルン小径の入り口の茶屋でぼてぼて茶をご馳走してくれた。周辺は今では椿谷公園として立派に整備され、当時の面影もないが、椿谷には当時急ごしらえのバレーコートがあり、市内の中学校のバレボール大会では背後に熱い応援を受けながら熱き血潮を燃やした思い出がある。

 先日帰省した折に母衣町界隈をぶらついた。藩政時代に武士が背中に長い布をまとって、風をはらませて馬で駆けたと教わったが、その精鋭武士団である母衣衆が住んでいたことに由来するのではなかろうか。母衣小学校の旧校舎は明治16年の竣工とかで、当時でもかなりの代物で、そのせいか語呂合わせでよくボロ小学校と揶揄されていた。当時の通学路は今では拡幅工事が急ピッチで進められ、通りの名も大手町通りと改められ、何やら品格が備わったが、馴染み深かった母衣町の街並みの面影は今はない。

 城山にまつわる思い出を思いつくままに綴ってみたが、城山は今でも昔のままの情景で私の脳裏に佇んでいる。 (2016/2/6)

戻る