「お茶ごと」と母

2011/01/12
今岡宣美
 昨年6月母が天寿を全うして102歳の生涯を閉じた。亡くなる一週間前に見舞ったが、その時には既に反応が鈍く、握りしめた手の感触から、あと数日の存命と知った。文字通りの老衰であった。
 母は6人の子供を産み、育て、その上出雲の実家では孫達の面倒も看、まさに明治、大正、昭和、平成の激動する時代を生き抜いてきた。我々の育ち盛りは丁度戦後の混乱期の食糧難の時代で、子供達の側では計り知れない大変なやりくりや苦労があったと思う。もとより健康で健全なDNAを受け継ぎ、雑草の如く強靭な生命力を授かってはいるものの、戦後の混乱、復興期に皆元気に育ってきたのもひとえに母の献身と健康面での配慮、とりわけ家庭内でのぬくもりが大きな要素であった。
 衣食住のテーマの中で、食に纏わる思い出が一番多く顕現するのは、やはり成長段階にあった若者が如何に食物に食指が動いたかを証左するものであろうか。しかし嬉しい事に、そのような事象が悲壮感として彷彿するのではなく、むしろほのぼのとした家庭の温かさの中に凝縮してこみ上げるのも、母を中心とした家族愛とでも言える絆があった故であろう。
 そんな状況を思い付くままに、食に絡むエピソードを綴って泉下の母に捧げたい。
 私自身母の母乳で育ち、幼年期には健康優良児で表彰された事もあると聞く。小学校に入学したのは終戦の年で小田にいたが、まだ食糧難の重圧は子供達には伝わっていなかった。海岸の岩場で貝あさりをしながら、のんびりとはるか前方の島根半島の先端での日米の戦闘機の空中戦を遠望したり、近くの防空壕で美味しいイチジクを賞味したり、(イチジクは今でも大好物である。)燈火管制下でも美味しく母乳のお裾分けに預かったりして、戦時色がそれなりに背景にあるものの、総てがほのぼのとした情景として彷彿する。
 小学校の低学年の頃、すなわち大田や松江の田町にいた頃が一番食糧事情が厳しかった時代ではなかったか。とりわけ小田から大田に移った昭和20−23年頃がそれこそ母にしてみれば、やりくりに一番苦労した時期であったのではないか。主食はおかゆと言うよりは、むしろさつま芋とかぼちゃの中に申し訳なさそうに米粒がある程度で、今でもさつま芋とかぼちゃはあまり食が進まない。食べ過ぎたのである。祖母の闇米騒動があったのもこの頃である。
 こんな状況に子供なりにも何か触発されたのか、それとも当時流行った一種の遊びごとであったか、食材確保に努力した記憶もある。近くの小川で海老を釣ったり、田んぼで蝗を捕らえたり、はては雑草の中からよもぎ採りをしたりして、ささやかであったが母の手助けをした。田町時代はよくすき焼きらしきものが食卓を賑したが、(母はよく小細工して、少ない肉を細切れにして実量より多めに見せる努力をしていた。)円卓に陣取った兄弟で競ってまばらな肉を漁り出すため鍋は直ぐに空になった。粗糖にバターや小麦粉を混ぜて煮込み、キャラメル作りに精をだしたのもこの頃である。大田の官舎時代には父の役得であったか、偶に食材の差入れがあり、とりたての野菜や海鮮物などを頂いたが、中でもまだ温もりがある雉の貢物には子供なりにも歓喜の至りであった。あの時家族で一緒につついた雉鍋の味は今でも忘れられない。
 我が家には何時頃からか'お茶ごと'という家族団欒の場があった。夜10時頃になると、誰とはなしに'お茶ごと'と言いながら居間に集まる。母も相槌をうって、粗茶と駄菓子を揃えてくれる。勿論テレビのない時代であったから、こうして家族が集まるだけでも一つの慰めになっていたし、大げさに言えば精神的な安らぎの場でもあった。ご飯に梅干、さつま芋、それに大根漬に有り合せの佃煮が定番であった楽山の寮時代、学期末に実家に帰るといつもこの毎夜のお茶ごとが潤いを与えてくれた。
 江津での折詰め事件にも触れておかねばならない。確か父が宴会から持ち帰った折詰の鮮度が悪く、家族全員が一種の食中毒にかかったことがある。どういう訳か一番悪いくじを引いたのが私で、七転八倒の激痛の末近くの病院にお世話になる羽目となった。急性盲腸炎である。これまでの人生で入院生活を経験したのはこの時だけで、ある意味では貴重な人生訓となったと、今では負け惜しみに似た感想を抱いている。
 食に纏わるエピソードを並べてみた。それぞれが時代を反映して懐かしい。今では美味しいものがいとも簡単に食卓に鎮座する時代であるが、私にとっては母が苦労した手作り料理に勝るものはない。その母も今はなく、テレビを見ながらの食事が当たり前となったが、母がいつも泉下から私達の食事時の団欒を覗き込んで、「美味しそうだね。」と言いながら微笑んでいるような気がしてならない。


4−5年前の横浜山下公園にて

戻る