今岡 宣美
 平成14年1月24日朝、父が生まれ故郷にほど近い出雲市神門町の自宅
で生涯を閉じた。享年98歳であった。急いで帰省したが、既にそこには目
を閉じた父の安らかな死顔があった。避けて通れないこの世の定めであると
は云え、肉親との永久の別れは悲しい。悲しみと共に私と云う生体をこの世
に存在させ、そして長年育んでくれた事への感謝の気持ちも湧き出していた。
年が改まるのを待って正月6日兄弟で白寿の祝いをした後の逝去であったが、
父も本望であったに違いない。父は明治37年生まれで丁度日露戦争勃発の
年ゆえに、勇ましい武雄という命名になったのであろう。誕生からほぼ一世
紀の年輪を重ねての大往生であったが、生きた時代も時代だけに父なりに波
瀾の生涯であったと思う。そういう父を偲びながらここに父の思い出を綴っ
てみたい。

 父は一言で言えば優しくて寛容な人であった。父から怒られた記憶はただ
一度だけである。私が小学校(母衣)の3−4年の頃親に内緒であったであ
ろうか、映画を観に出かけ、その帰りがひどく遅くなり日が暮れた後の帰宅
となったのを憶えている。家の前をうろうろして狼狽していた父の姿を今も
よく憶えている。その時どんな怒られ方だったか今では定かではないが、確
か「一人で何処に行ってたんだ!。心配したぞ!」と怒鳴る父の重い口調が
あった。受験やら結婚やらで心配の種は撒き散らしてきたと思うが、怒りを
顔に顕わして怒られた事はこれ以外には思い出せない。多分これきりだと思
っている。

 父の存在を大きく感じたのは私が小学校2−3年の頃であった。丁度父が
大田市にある県の出先機関である地方事務所の所長職の時で、たまたま住居
が事務所に繋がっていて、よく所長室に出入りした事を憶えている。やけに
広い部屋で大きな机を前にした父の姿が大きく見えた。私の将来の夢は「地
方事務所長になること」と小学校の作文に無邪気に書き連ねたことを母は今
でも私を揶揄して笑う。因みにこの住居は明治末期(明治40年頃か)大正
天皇が皇太子時代に山陰巡幸の折に特別に造られた言わば便殿で、今はもう
ないが、当時は小高い丘の上にその威容を呈していた。サイズが凡て並はず
れて大きく、例えば次の間付きの厠など4畳半ぐらいの広さであったろうか。

 私が小学校に入学する前の父のイメージは殆ど浮かばない。むしろ常に面
倒を見てくれた祖母の姿が付きまとう。(両親とも当時は教職の身であった
ので、おのずと祖母との時間的な接触が長かったためであろう。)かくれん
ぼ遊びに恰好の場所であった桑棚のかいこの世話に余念がない祖母、畑から
突進して納屋の便所の引戸を引き、早く私に交代を強いる祖母、庭の御堂に
お参りする遍路さんに似た風情の人を障子の裏から恐る恐る垣間見る私に説
教する祖母、裏手の井戸やお墓の近くの清流口付近への出入りを厳重注意す
る祖母、生活のあらゆる場には常に祖母の姿がある。私が生まれ、小学校
(小田)に入学するまで(すなわち昭和19年迄)の生活の場は乙立(おっ
たち)という処で(現在の出雲市乙立町)、神戸(かんど)川沿いの半山半
農の村であった。因みに、乙立は出雲風土記によれば門立(とたち)とよば
れ、神門(かむど)川沿いの船着場として重要な拠点であって、何やら言葉
からして神々しい。

乙立神楽
 父は決して偉丈夫ではなく、むしろその優しい容貌から人の良さを顕にし ていたが、外面的な容貌に似合わず意思堅固なつわものであった。知井宮 (西出雲)の米原家から今岡家へ養子となり、本来なら養父が守ってきたお 寺の維持運営が常套の勤めであったろうが、青雲の志を抱いて高等師範に進 み寺を廃寺にした。時代が時代であったこともあるが、よほどの頑固者であ る。(そう云えば、梯子をかけて屋根裏に上がり、山ほどある蔵書を玩具に して遊んだ記憶があるが、その蔵書はどう処分されたのであろうか。)  父が一番父親らしい姿に映ったのは私が母衣小学校の4−5年頃であった ろうか。田町の県の宿舎前の道路でキャッチボールなどの遊びに興じている と、(当時は公道でよく遊べたものである)父が自転車で帰宅して、よく一 言二言声をかけてくれた。父は当時県の児童課長職にあって、よく私を県の 関連施設(養護ホームや特殊学級など)に連れ出してくれたが、不思議なこ とに私自身なかなか施設の子供達と馴染めなかったのを憶えている。何気な しに彼らと距離を置こうとした自分がそこにあった。  私は中学3年(松江ニ中)から松高時代は川津の楽山にあった寮(今はテ ニスコートになっている)住いで両親と別れた生活であった。そのためか、 中学、高校時代の父との接点は非常に薄いものとなった。一人住いの孤独感 や寂しさがこみ上げるとそれは母を慕う気持ちであった。しかし、当時の父 の周辺には以前と違って何か政治的な匂いが漂っていた。県から江津市の助 役に招聘され、きなくさい地方行政の渦の中に身を投じた感じで、酒との付 き合いもこの時が一番多かったのではなかろうか。もともと父は調整能力に 優れ、酒を嗜なわない市長に代わって随分地方議会や県及び国との調整業務 に多忙であったと推測する。  父が要職から引退した当時は私は既に会社勤めであって、特に私が広島や 大阪及び名古屋の支店勤務の時にはそれぞれの近郷を共に旅した。一番の思 い出は父と米原家のルーツを訪ねて京都(特に大徳寺)や和歌山などを旅し た時であろうか。今の私もぼちぼちそんな心境であるが、人間加齢し老境の 身になると自分のルーツを探ってみたくなるものである。当時の父には何か そんな心境が顕で、今から思えば自分が土に帰る拠り所を探索していたので はなかったか。(聞くところによれば、ルーツは尼子の家臣米原綱寛に繋が るという。私も暇にまかせて今そのルーツ研究の端緒にあるが、調べてみる と、米原綱寛はあの高名な山中鹿之助らと同時代の武将で尼子と毛利の数度 の戦に関わり、最後は城主だった高瀬城の落城で京に落延し剃髪して静かな 余生を当地で送ったとある。)
比較的最近の父と母
 父の思い出の一こま一こまは次々と浮かんでくるが、饒舌となるのでこれ 以上記さない。ただ確かなことは両親を中心とした家族団欒の中の父がやは り一番父らしい姿であり、そこに、我々子供達が知らず知らずの内に父の父 たる所以を感じ、敢えて大げさに言えば、人の人となりの何かを教わったよ うな気がする。父はもういない。生命の輪廻とでも云おうか、古いものが新 しい息吹となって生まれ出てくる。昭和43年に二女の美奈子が生まれたが、 その数ヶ月後祖母が逝った。今、美奈子に待望の男子が生まれ、そして父が 逝った。果てしない宇宙の神秘さの中で、生命は冥々と繋がっていく。私も そんな宇宙観を育みながら今日の今日を大切に生きていきたい。                             2002.5.12 記



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